これは余生なのか

30代に入って1年が過ぎた。間も無く31歳になる。

 

こう書くと、自分の生きてきた時の長さに驚く。自分が30年もこの世にいたなんて、にわかには信じられない。まるで14歳のまま時だけが過ぎたんじゃないかとも思うけど、14歳以降に起こった様々なことを考えると、やはり30年生きたのだと結論づける他ない。

 

結構、30年の間に色んなことをやってきた気がする。そのせいなのかなんなのか、2019年の秋くらいから、私は今「余生」を生きている、という感覚がどうにも抜けなくなってしまった。

何をやっても、どんなことが起きても、なんとなく自分が起きているその出来事の枠の外にいて、「余生」からそれを眺めているような、何かを達観したような諦めたような感覚がずっとあった。感情も鈍化した気がする。ものすごく嬉しかったり、焦がれたりということも減った代わりに、悲しかったり悔しかったりする気持ちもどこかへ行った。たとえ今死んだとしても、「ああ、長いこと生きたなあ」とあまり思い残さずに死ぬ気がする。

 

多分、博士過程が終わって燃え尽き症候群になったのもあったんだろう。あの時人生の全てを傾けて頑張ったから、ある程度は仕方ない。

 

まあ、「余生」だからと言って、何もしなかったわけではない。仕事はしたし、結構積極的に色んなところに顔を出したり人と会うようにもした・・・と思う。人から聞かれた質問には答えたし、気になることはなんでも人に聞いた。メールの返信も、遅いと怒られたことがあったので「見たらすぐする」と決めて、できる限り返事した。どんなことも「誘われたら断らない」と決めてやっていたが、7割くらいは達成できたはずだ。その意思は今も失われていないから、あまり心配はしないでほしい。

 

でも、精神的にはそこからなかなか変わらなかった。しかも、どうしようかと思っていたら世界がパンデミックになり、私以外の人もちょっと似たような人生を送り始めた。それはなんだか心地よい感覚だった。フワフワした余生をみんなが送っている。隔絶されて、孤独で鈍化している余生を。私だけじゃないという感覚が自分を安心させた。

何度か、「もう死んでもいいんじゃないかな」とも思った。「だってもう頑張ったもん」と。

希死念慮があれほどポジティブにやってくるとは思わなくてびっくりした。大抵、蝶々のような形をして、ひらりひらりと夜にやってくる。布団に入ってじーっとその気持ちが去っていくのを待った。死は私の脳内のどこかすごく小さなところに、だが確実にいて、時々線路を見たり、高いビルディングの屋上に行ったり、長いコードを見たりするとちらりと姿を現した。

こうやって書いてみると、私はしばらく鬱状態に陥っていたのかもしれない。燃え尽き症候群と逆カルチャーショックはかなり酷かったし、そこにコロナのパンデミックが重なってきた上に新しい職場に新しい人。当然といえば当然だ。

 

心の中で、「余生」状態から抜けられないことには少し焦りがあった。ヨガでも始めればいいのかなと思ったが、始めなかった。スピリチュアルとか、そういうのもダメだった。自己啓発本もどうしても苦手なので読まなかった。見た目にあまり気をかけなくても何も思わないし、小説にも手が伸びないし、自分をどうにかしたい欲がすごく薄くなって、それに焦りながらも、ただ何もせず時をやり過ごした。

 

今、こうやって文章に書けるようになったので、私は少し「余生」から抜けてきていると思う。自分の周りにあった薄い膜が割れて、少しずつ戻ってきている。まだまだ生きなくてはいけない。まだ先は長い。まだ生きて働いて税金を払えと要求されている。結婚して子供を生んで育てろと要求されている。都合の良い時に話し、それ以外は黙っておれと要求されている。

 

先は長い・・・。

だけど、まあ、こうやって書けるようになって良かったと思う。実際、ガンで闘病している人のブログとか、命をつなぐために必死に頑張っている人の文章とか読むと、私の「余生」思考なんてスーパーあまちゃんで、何をちっぽけなことでごちゃごちゃ言っとるんじゃという気分になる。でも、余生モードに入っちゃうと、本当になんでもどうでもよくなっちゃうのだ。それはダメだ。もっと貪欲にならなくては。欲しいものは全部手に入れたいと思ったってどうせ手に入らないんだから、せめて後悔しない程度には攻めたい。

 

そんな感じで、余生から人生に戻ってきたというお話。余生も悪くないけど、もうちょっと頑張りましょうね。